散文誌

日記・小説

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ムカデ人間

○:「彼は消してしまった」
▲:「それで?」
○:「それで終わりさ。彼は消してしまったんだから。続きようがないだろ?」
▲:「そりゃそうだけど、君が話したように、現にお話として残ってるってことは、結局のところ彼は消してしまわなかったってことじゃないか?」
○:「なにいってんだい、これはお話なんだから、彼が消してしまったことを知ってる誰かが彼のことを書いてるに決まってるじゃないか。語り手と彼とは別人ってことだよ」
▲:「ああ、そういうこと」
○:「そう、そういうこと」
▲:「でもさ、ちょっとおかしくないか?彼は消してしまったんだろ?消してしまうってことは、残したくなかったんじゃないのか?」
○:「そりゃそうだろうね」
▲:「だろ? 彼が消してしまったモノを、語り手の彼は残してしまった。彼の思いを踏みにじる彼の行為は、ちょっとどころかだいぶおかしいじゃないか」
○:「うーん、確かにそういわれるとそうかも」
▲:「かも、じゃなくそうなんだよ。彼が消してしまいたかったモノを彼は残した。考えてもみなよ、君がどうしても消してしまいたかったモノを誰かが残したら、君はどう思う?」
○:「許せないよそりゃあ。かんかんに怒るだろうね」
▲:「そうだろ?なのに彼は残した。最低最悪のクソヤロウだね」
○:「まぁまぁ、ちょっとおちついて」
▲:「これが落ち着いていられるかい?自分がどうしても隠しておきたかった秘密を他人に暴かれるなんて、想像しただけでも怒りを覚えるよ」
○:「まぁ分かるけどさ。それはひとまず脇においておいて、どうして語り手の彼は彼の消してしまいたかったものを残したのかを考えてみようよ」
▲:「どうして残したか?うーんどうしてだろう?」
○:「思うに、語り手の彼は彼の肉親じゃないのかな」
▲:「肉親?」
○:「そう、彼のことを愛していた肉親。彼を産み育んできた両親かもしれないし、血を分けた兄弟かもしれない。ほら、有名人が死んだらさ、その伴侶や肉親なんかが追悼本みたいなもんを出すじゃない?ああいった感じで、誰かに彼のことを知ってほしいから残したのかもしれないじゃない」
▲:「うーん、そうかなぁ?」
○:「そうだよ、きっと。葬式とかお墓とかさ、そもそも死者にとっては何の意味もないんだよね。遺族のためのものにすぎないんだよ。そうした形だけのものより、死んだ人の思いなんかを知れる文章とかのほうが、よっぽど死者のためになってるんじゃないかな」
▲:「どうかなぁ。他の場合ならともかく、この彼の場合はためになるとは思えないんだけど」
○:「そうかな?」
▲「そうだよ、彼は消してしまいたかったんだから」
○:「そういわれればそうだけど」
▲:「そうだよ」
○:「あ」
▲:「ん?」
○:「ふと思ったんだけどさ、もしかしたら、彼は自殺したとも考えられるよね」
▲:「え?」
○:「だからさ、彼ってのは自分のことなんだよ。彼=自分を消してしまった。遠回しの自殺と考えられないかな」
▲:「うーん」
○:「彼がどうして自死を選んだのか、その背景はどんなものだったのか、そうしたことを世の中に問いたくて、遺族が彼の言葉を残した。そういうことなんじゃないかな」
▲:「ふむ、自殺か」
○:「うん、自殺ね」
▲:「自殺予告」
○:「そう、自殺予告」
▲:「でもさ、どうしてそんなモノ残したんだろうね?これが事実上の遺書だとすると、どうも納得がいかないよ」
○:「なにが?」
▲:「だってさ、これから死のうとする人間が、こんな回りくどいことを書くかなぁ?死ぬならはっきり死ぬって書くか、なにも書かないかのどっちかだと思うんだよね」
○:「そうかな?」
▲:「そうだよ。そんなのがまかり通るのはお話の中だけだね」
○:「手厳しいな」
▲:「手厳しいよ」
○:「じゃあ、殺されたのかもしれない」
▲:「ええ?」
○:「自殺を装って殺された彼の遺品に、たまたま意味深な文章が残っていたとか」
▲:「そんな偶然ありえないよ」
○:「ありえるよ、世の中は奇天烈だから」
▲:「そもそも死んでるの?」
○:「まだ死んでない」
▲:「え?」

-----○さんが退室しました-----

『……え?』

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お題バトン『自由という不自由』

僕は読書感想文というモノが大の苦い手だった。「何々の事について、自由に書きなさい」と言われても、何をどう書けばいいのか分からず、毎度毎度、困り果てていたモノである。その度に、姉に手伝ってもらっていたのだが、姉はちゃっかりしていて、「一文字一円から受け付けます」などとのたまうのだからシャレにならない。

子供の頃のお小遣いなど高が知れているモノである。そんなショボい財務で四百字詰め原稿用紙一枚から二枚にまで及ぶ、読書感想文の代筆依頼を頼もうモノなら、たちまちギリシャのように財政破綻に追い込まれるのは明白極まりない。大いに悩み苦しんだモノであるが、やはり自分ではどうも書けず、また何より、少々見栄っ張りな部分が背中を押して、苦渋の決断ながら、姉に代筆を頼んだ、あの苦い思い出の味は忘れられない。

その時、僕は学んだんだ。自由は金で買える。がしかし、その支払った対価の分、不自由な思いをすることになる、と。

現在、僕は、乏しいサラリーから貧乏人の知恵を駆使して僅かな自由を手に入れるために、多大な労力と時間を費やすという不自由を強いられている。この社会という枠組みで生き、その下層で上を見上げながら歯車の一部を回している多くの人間の一人として、そんな不自由、甘受してしかるべきなのだろう。しかし、頭では分かっていても、ハートはどうにもならないってのが人間ってモノでしょう?
僕は今も、あの子供の頃の苦い味を絶えず味わっているのだと思うと、たちまち死にたくなるんですが、そういえば最近、自殺未遂者のドキュメンタリーを観ましてね、その中である未遂者がこう言ってたんです、「『死にたい』んじゃない、死ななきゃならないと思いつめてたんだ」って。
なるほどと思いました。『死にたい』という願望ではなく、『死ななきゃならない』という絶望があるからこそ、ルビコン川ならぬ三途の川を渡ろうとするのだということに。彼らは幸か不幸か渡れませんでしたが、僕にはそこまでの絶望はありませんから、まだまだ賽は投げられないようです。

死のサイコロは振られはしないが、現実という名のサイコロは容赦なく振られ続ける。6の目は気配させ見せず、1と2しか出ないようなそのサイコロは否応なく僕の人生を底辺へ、底辺へと導いていく。後からどんどん、僕を追い越していく綺羅綺羅しい人間達の群れ。4の目や5の目が次々に振られ、あっという間に上へと昇り、背中さえ見えなくなる。そうして上ばかり見つめているうちに、いつしか僕は非現実的な妄想に耽溺するようになった。あんな自分やこんな自分、なりたかった、あるいはなりえなかった理想の自分を想い描いては堪能し、時には感動のあまり枕を濡らすこともあった。
これはもう無くてはならないモノ、趣味でもなく習慣でもない、必要不可欠な心の滋養なのである。

僅かな自由を得るために、多大な不自由を耐え忍ぶ。その狂った天秤の不公平な彼我の差を変えるには、心のコスモを熱く燃やすしかないのだ。そうして慎ましやかな仮初めの幸福に酔いしれる。コンビニでワンカップを買いその場でキュっと飲み干すおっちゃんのような侘しい幸せ。

そういえば先日、宝くじ売り場に寄ったところ、ワンカップおっちゃんみたいな風貌のおじさんが、売り子のおばちゃん相手に何やら宝くじ理論なる怪しげなご高説をぶっていました。中身はてんで覚えちゃいませんが、去り際に言った言葉だけは覚えています。

「俺も本気で当たるとは思ってないよ。外れれば捨て金だけど、そのかわり夢を買ってると思ってる。当選番号が発表されるまでの短い夢だけど、色々と思い浮かべるのは楽しいからね」

陳腐な台詞かもしれません。言われ続けてカビの生えた言い訳かもしれません。けれども、この使い古された文句には、心のコスモを熱く燃やせる人間だけが本当に共感できるのです。僕も当たるとは思っていません。夢を買っているんです。心のコスモを燃やせることのでkるいい燃料になる。そうして色々な妄想に耽るのです。現実の当選者の話を材料にするのもいいでしょう。ただ、耳にする当選者のその後は、悲劇的なモノばかりですので注意が必要ですが、自己憐憫が大好物の僕のような人間には最高の燃料になるでしょう。ヒースクリフやギャツビーのような人生をトレースするのもいいですね。この二人は怪しげな方法をもちいて短期間で千金を得ましたが、金はつかめても愛はつかめなかった二人ですので、悲劇的な結末といい、良質なプレイになると思います。

ちなみに今、僕のデスクにはワンカップが置かれています。酒はあまり飲めるほうじゃないんですが、ワンカップおっちゃんになりきって飲むと、意外に飲めちゃって驚いています。でもこれも妄想かもしれません。買った記憶はあるんですが、飲んだ記憶がないんです。おかしいですね。たまにこういうことが起こっちゃうのが、妄想に耽溺しすぎた弊害なのかもしれません。そろそろTWDの時間が迫ってきました。ここらで打鍵をとめ、次のバトン走者にこうビシっとわんかっぷ!!!
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共通テーマ『幼女』

2chに入り浸っていると、真偽はどうあれ様々な情報のシャワーに曝される。長く曝されれば曝されるほど、水流を形作る一つ一つの滴がどんなに汚れていようと気にしなくなってくる。たとえ曲解された情報であっても、面白ければそれでいい。そんなメンタリズムに冒されていくのだ。それが良いか悪いかはどうあれ、ときに砂漠から砂金を掘り当てるような情報に出くわすこともある。

とある板のあるスレッドに、こんなレスがあった。

「バレエのコンクールは言わずと知れた穴場なんだよ。規模が大きければ大きいほど、更衣室に入れきれなかった女の子たちが廊下やロビーなんかでおおっぴらに着替えてるんだから」

言っておくが僕は幼女に性的興奮を覚えるような変態ではない。がしかし、この情報には一笑に付すことのできない何かがあった。それは善良な市民たる僕の良心に引っかかる何かであったかもしれない。とにかく僕は、この真偽の定かではない情報に対して、調べる必要があると感じたのである。

まずはバレエコンクールがどこでいつ行われるかを知らなければならない。僕はグーグルやヤフーといった主要検索サイトで情報をあぶり出し、さらに居住地で絞込みをかけたところ、何件かヒットした。バレエコンクールとやらがそこそこの頻度で催されていることを知った僕は、驚くとともに軽く興奮した。もちろん、情報の真偽をこれで確かめられるという想いからである。けっして、やましい想いからのことではない。

ヒットしたサイトの情報を吟味すると、どうやら大半のバレエコンクールとやらは大小さまざまなバレエ教室が独自で行なうコンクールのようで、他のスポーツのように公の連盟が取り仕切るコンクールはあまりないようである。いってみればコンクールと名がついた発表会のようなモノが大半らしい。

発表会ならお金はとられないのかなと思いきや、入場料は取られるようだ。しかもチケット制である。一枚千円という値段が高いのか安いのか判断がつかないが、チケットを求めるには主催者に連絡しなければならないらしい。とてつもなく高いハードルが目の前に立ち塞がり、失望に消沈しかけたが、つと思い直した。確認しなければならないのはあくまで廊下などで女の子が本当にきがえているのかどうかであって、なにもわざわざ鑑賞する必要はないのである。再び沸きあがってくる興奮に逸る手を抑えながら、僕は日時と場所をメモ用紙に殴り書いた。

さて当日、僕はそこへ行ってあれやこれやを見たと書こうと思ったけれども、ウソをつくのがいやになったのでやめることにする。そう、全部ウソである。僕が書いた偽りの情報でベドフィリアやロリコンといった類が手のひらで踊るさまを想像して悦に入る自分に嫌気が差した。真に申し訳ない。この駄文に一つ、事実があるとするなら、それはレスの内容である。情報源は舞姫テレプシコーラという漫画で、そこに記された内容をそっくり書き出した。それは事実である。しかし、真実かどうかは、あなた自身でお確かめになってはいかがでしょうか。
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お題バトン『自分の中の許容範囲』

許容範囲ってのは意外と狭いもんだ。他人にとって気にはならない些細なことが、自分にとっては我慢ならない重大なことだったりする。反対も然り、自分にとってどうでもいいことが、相手にとっては堪えられないこと、だったり。人間関係は煩雑である反面、そういう小さな齟齬や違いがあるからこそ面白いのかもしれない。

しかし、他人に対しては狭いといえる許容範囲も、こと自分自身に対してだと、その範囲は意外と広いのではなかろうか。自分自身の行動に関しては、それが他人だったら許せないことも、自分だったら許せる、というより、なにかと理由や言い訳をこじつけてその行動を自身に許してしまうことが、意外と多い気がするのである。

例えば一般的な家庭で育ち、常識的な行儀を身につけた人が、一人暮らしを始めてしばらくすると、それまでの行儀を無視した行動をとることが往々にしてある。フライパンで調理した料理を皿に盛り付けずにフライパンを皿代わりにしたり、ペットボトルなどの飲料をコップに注がずに直で飲んだり。
めんどくさいし、誰も見てないからいいや――。そういう気持ちが、徐々に自身の行動に対しての許容範囲を広げていくのである。

子供の頃、早く大人になりたいと、誰しも思ったことがあるのではなかろうか。家庭では家族の、学校では教師や同級生の目が、規則が、コルセットのごとくぎゅうぎゅうと自身を縛りつけて離さない。だから早く大人になりたいと思う。この束縛から自由になりたいと思う。しかし、そうして自由になった途端、それまでの箍が外れて一気に自堕落になるのが、人間というモノなのではないだろうか。少なくとも、僕はそうである。

例えば、風呂。あるとき、尿意に我慢ならなくなり、シャワーを浴びながら放尿したことがあった。それまでの僕なら、ありえないことである。許容もなにも、そもそもそんなことありえないのであるから、範囲の外だ。量る対象でもなんでもない下劣な行ないである。しかしながら、そのときの僕は非常に疲れていた。綺麗にしてからじゃないと寝られないというそれまでの常識が、重い身体に鞭を打つ。そうしてすぐにでも横になりたいという気持ちをなんとか押し留めながら、シャワーを浴びていたのだ。そこに、トイレに行くというもう一打擲など、耐えられないし耐えたくもない。それに、誰もみてないしいいじゃないか――。そんな悪魔の囁きが、常識という名の防波堤を瓦解させ、迸る尿意を開放に導いたのである。

一度壊れたモノは元に戻らない、という。それからというもの、僕は似た状況に陥ると、同じことを繰り返すようになり、いつしか、シャワーを浴びていると尿意を催し、小便を垂れ流すようになった。
堕落、である。僕は自由を手にした途端、それまで自己を律していた束縛から解放され、培ってきた常識の許容範囲を大幅に引き下げたのだ。ここに、自由という言葉が持つ危険な側面を見出すことができる。巷では自由と自堕落を一緒くたにして、都合のいい「自由」という言葉が独り歩きしている感があるが、これは裏と表であり、ほんの紙一重の差でしかない。自由という言葉に表される行動や思いは、ほんの少し踏み外しただけで、堕落に落ちる、かぼそい一本の細い橋のようなモノなのである。

誰もみていないから、めんどくさいから、いいや。そんな思いから踏み外した堕落への降下は、気がつかないところで、さまざまな影響を及ぼしているような気がしてならない。たとえ誰もみていなくとも、めんどくさくとも、たしなめるべきところはたしなめてこそ、子供の頃なりたかった大人の、あるべき姿なのではないだろうか。そう、自戒の念とともに想う今回のテーマでした。



ちなみに、他人が風呂場で小用を足していたとしたら、僕は許容できない。自分もやっているんだからいいじゃん、なんて声が聞こえてきそうだが、それは通らないな。自分の小便なら構わないが、他人の小便など、触れたくもないし近づきたくもないのは誰しも同じだろう。そして想像する。たとえ綺麗に洗い流したとしても、こいつの身体には汚らわしい排尿の残滓がこびりついているのではないか、と。そうおもうと、途端にそいつが汚らわしい生き物のようにみえて、その体臭も、口臭も、小便の香りがぷぅんと臭ってきそうで、とてもじゃないが許容なんてできない、という気持ちになるのだ。致し方あるまい?なんだろう、そういう、ある意味ダブルスタンダード的な矛盾を自己正当化するエゴこそ、人間の持つ本質の偽らざる真実かもしれないね?なぁんて。

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お題バトン『しぐさ』

公園で飯を食っていると、どこからともなく鳩が現れ、いつの間にか囲まれている、といったことがよくある。奴らは首を前後に打ち出す滑稽なピストン動作を繰り返し、「くるっくーくるっくー」なんていかにも可愛げに鳴きながら、誰彼となく迫るのだ、おい、その飯をよこせ、と。
邪険に追い払っても、しばらくするとまた周囲に集まってくる。その厚かましい嘴を前後に揺らしながら。「くるっくーくるっくー」とバカみたいに鳴きながら。メ・シ・ヲ・ヨ・コ・セ、と、そのしぐさが物語っているのだ。

ときとして、動物は人よりも雄弁に物語るのではなかろうか。臆面もないしぐさを通して、情が表に透けてみえるとき。それは多分、どんな言葉よりも、人の心に訴えかけるモノがあるのではないかと、僕はおもう。

しぐさが語る。そのことを考えるとき、脳裏に浮かぶのは一匹の犬の姿だ。



近所の公園に犬がいた。
柴犬のそいつはホームレスに飼われているようで、ブルーシートに覆われた粗雑なテントの片隅にちょこんと居座っている。そのおとなしく飼い主に寄り添っているような佇まいをみて、僕は忠犬ハチ公を思い出した。
ある日、公園を歩いていると、ハチ公がおばあさんから食べ物を与えられていた。その恵んでもらっている境遇もハチ公のようで、なんだか微笑ましい光景だった。
ある雨の日、帰り道に公園を横切っていると、ハチ公をみかけた。ブルーシートの片隅に、雨よけなのか犬小屋なのか判別しがたい、大きめのダンボールに潜り込んで、濡れそぼっていた。その姿もまた、駅で主人を待っているハチ公を思わせた。
ある晴れた昼下がり、公園で弁当を食べていると、ハチ公が近寄って、ちょこんと居座った。そのつぶらな瞳は恵みを乞うているようだったが、僕は餓狼のように餓えていたので、とても恵んでやる気にはなれず、黙殺した。そのままがつがつと食べていると、ハチ公は僕の口元をみつめ、舌を動かし、喉をゴクリといわせながら、クゥンと物悲しげに鳴き声をあげた。そのしぐさは、お願いしますと懇願しているようで、僕はしぶしぶ、白米を一塊、くれてやった。ハチ公はぺろりと平らげると、またクゥンクゥンと鳴いてくる。もうだめ。もうやらないぞ。そう思っても、哀れみを覚えずにはいられない鳴き声には抗えず、根負けした僕は弁当の残りをハチ公に与えた。おいしそうに食べているハチ公をみて、僕は、満たされなかった腹の埋め合わせに、なにやら暖かい感情が満ちてくるのを感じて、悪くない気分だった。


今、公園にハチ公の姿はない。いつの間にか、ホームレスとともに跡形もなく消え去っていた。
元気にしているだろうかと、ふと思う。多分、元気にしているのだろう。なにせ、あのしぐさのまえには、たぶん、誰も抗えないだろうとおもうから。

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共通テーマ『異世界』

目は口ほどにモノを言う、という言葉がある。

こんなことがあった。

夜遅く、コンビニにでも行こうと思い、エレベーターに乗ると、すぐ下の階から一人の若い女性が乗り込んできた。寝巻きのような、ラフな格好をしたその女性は、ひどく嫌な感じがした。乗り込むとき、相乗りが男の僕だと分かると、警戒心丸出しの顔をしたからである。そのうえ、なにかされるとでも思っているのか、彼女の立ち位置はやけに隅っこなのだ。こんな露骨に危険とみなされたのは初めてである。
少々むかついたので、横目でじろじろと観察してやると、薄手のパーカーにショートパンツとサンダルをつっかけた肢体は、思いのほか肉感的で、欲情をそそるモノだった。これ幸いとばかりに男の本能むき出しで目の保養に勤しんでいると、視線に気づいたのであろう、振り返った彼女の目とばっちりあってしまい、慌ててそらしたあと、妙にうろたえてしまった。盗み見ていた疚しさ。見咎められた恐怖。当然、彼女の目は怒りや非難の色を浮かべているのだと思いきや、まるで違っていたから。
彼女の目は、怯えていた。それがなにより、僕をうろたえさせたのだ。



なにが彼女を怯えさせたのだろう?見知らぬ男と二人っきりの、狭い閉鎖空間で、じろじろと舐られれば不愉快だとは思う。が、怯えるまで怖がるようなことだろうか?なにかあったのだとしか思えない。なにか、怯えるようなことが。



以前、性犯罪被害者にスポットを当てたドキュメンタリー番組のなかで、ある被害者がこんなことを言っていた。
「男の人を見かけるたび、あのときの光景が脳裏に蘇ってきて、しばらくのあいだ、外に出ることが出来ませんでした。今でも、男の人をみると、思い出すことがあります」
ある日突然、男という男が恐怖の対象に変わる。悪夢の記憶を呼び覚ます呼び水となる。被害者の目に、世界はどう変わって映ったのか。

犯罪加害者の家族にスポットを当てたドキュメンタリー番組では、ある加害者家族がこんなことを言っていた。
「事件のあと、住所や実名、顔写真まで週刊誌やインターネットに晒されてしまい、外へ出ると、誰もが知っているんじゃないか、誰かにあの事件の加害者家族だと指摘されるんじゃないかと、恐ろしくてたまりませんでした。今でも、ふとした折に、誰かに後ろ指を指されるような気がして怖くなります」
ある日突然、世間という世間が敵に回る。安全だと思っていた社会が、街が、粗暴な裏の顔へと反転していく。加害家族の目に、世界はどう変わって映ったのか。

逃れようのない暴力が、それまでの人生を一変させる。ありふれた、何気ないはずの日常の一コマが、突然、恐怖に震える対象になる。何かを見るたび。誰かの視線を感じるたび。こころに産み付けられた不安の卵が、一斉に孵化し、ざわざわと這い回りだしては、怖気をふるう。その目に世界は、どう変わって映っているのだろうか。


あの夜の、エレベーター。記憶の中の、逃げるように降りていった彼女の後姿に、暴力の痛々しい爪痕を視たような気がして、なんだかきまり悪くなったけれど、考えすぎかもしれない。本当はなんてことない理由なのかもしれない。いや、本当に悲惨な目にあって、僕という存在が、忌まわしい何モノかにみえたのかもしれない。本当のことは分からない。

彼女の目は、今、どんな色を浮かべているのだろうか。

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共通テーマ『青春時代』

僕が貴重な青春の時代を散漫と過ごしていた頃、姉がカツアゲされそうになったことがある。当時、姉は二十代の中頃で、事務職に就いており、まだ結婚はしていなかったが、ご多分に漏れず週末となると、どこそこへ遊びに出かけては夜遅くまで帰ってこない、といった、どこにでもいる女性であった。
そんな姉に母が小言をいう度、姉は「もう子供じゃない」などと返す。そんな光景が当たり前のようになり、ただ過ぎ去っていく日常の一コマとなりおおせた頃、事件はおきた。



事件当夜は雨であった。朝から降り続く雨は夜になってもその蛇口を緩めず、かえって勢いを増していくような空模様は、大地を歩く人間にも影響を与えずにはおかなかったらしい。いつもなら人の多い街も、どことなく閑散としていて、そのせいかどうか、その日の会食も早々に引けてしまったそうである。(確かその日は金曜日だったはずである。姉が花金と言っていた記憶があるので間違いないはずだ。しかし花金とは妙に古臭い言葉である。当時も既に死語となっていたはずの言葉を、なぜ姉は使っていたのか。今にして思えば奇異に感じるが、より奇妙なのは、当時、姉からその言葉を聞いていたはずの僕はどう感じていたのか、まるで思い出せないということだ)

花の金曜日の集いが早々に終わり、帰り道が一緒の友人と駅へと向かう道中。数人の、女子高生のグループが道を塞ぐようにまえを歩いていて、尚且つその歩みが遅々としたモノであったためか、はたまた雨で濡れる足元の不快感のせいなのか、とにかく姉と友人は非常に苛々したらしい。(気持ちはよく分かる。学生ってのはどうして公道であるはずの道を我が物顔で歩くのだろう。世界は自分たちを中心に回っているとでも言わんばかりじゃないか。その若さが、青さが、憎々しくてたまらない。だから僕は、想像の眼を使って、奴らの傲慢にむくいてやるのだ。女どもには衣服を一枚一枚剥ぎ取り、公共の面前で素っ裸にしたあと、これでもかと姦淫の罪を着せ、不可視の射精の飛沫でその若さに溢れた身体を穢しに穢してやる。男どもには?死、あるのみである)

苛立ちを募らせながら、ようやく追い抜けそうな幅と長さのある交差点についたとき。姉たちはここぞとばかりに、信号が青になるまで、聞こえよがしに悪態をついたのだが、当の女子高生たちは完全に無視を決め込んでいる。怒り心頭にたっした姉たちは、信号が青になるやいなや、わざと傘に傘をぶつけて追い抜いてやったそうである。傘から落ちる水滴がもろに身体にかかったのか、後ろから女子高生の罵声が飛んだが、姉たちは無視してその場をあとにしたそうだ。(さて、この時点で後の事件を惹き起こした非はどちらにあるのかを考えると、陪審は軒並み、非は姉にありと見なすであろう。発端は女子高生たちが道を塞いでいたからであるが、それは大人として、姉が注意すれば穏便に済んだことである。母が小言をいう度に、姉が「もう子供じゃない」と返していたとおり、子供じゃなく大人であるのなら、簡単に済んだ話なのである。当時、上記のことを言うと、姉は「確かにそうね」と認めたあと、やにわに反論しだした覚えがある。やいのやいのと反論する姉は、その実、非など一片も認めていないのだと思わざるをえなかった。本当に非を認めているのであれば、反論などしないモノである。そんなことも分からず感情でモノをいう姉を見るにつけ、「女は感情で生きる生物」だと貶められるのも已む無しかなと思わざるをえない)

駅につき、路線の違う友人と構内で別れたあと、姉がホームで電車を待っていると、先ほどの女子高生たちが同じホームに入ってきた。ぴーちくぱーちく囀りながら姉のほうに向かって歩いてくる。姉は内心、ヒヤッとした(あとで話を聞いたときには、一言も漏らさなかったが、姉の人となりを知っている僕としては、ヒヤッとしたのではないかと思う)が、女子高生たちは近くにきただけで、会話に夢中になっているようだった。一安心したのもつかの間、漏れ聞こえてくる会話が、なにやら不穏当である。

女子高生A「マジであの女さいあくじゃない?」
女子高生B「ほんと、Aちゃん濡れちゃってかわいそー」
女子高生C「シミになってるじゃん、さいてー」
女子高生ABCetc.「ぴーちくぱーちく」

遠まわしの挑発。姉はキッと睨んだあと、こう思ったそうである。雨でシミになるわけないじゃない!

姉の眼光を真っ向から見返して、女子高生Aは言ったそうである。「なに睨んでんのおばさん」

そうして口喧嘩が始まり、やがてクリーニング代を出せ、出さないの押し問答が永久ループに入ったところで、駅員があいだに入り、事なきをえた、というのが事件、いや、おばさん狩り事件の顛末である。

家に帰ってくるなり、姉は事の顛末を盛大に捲し立て、僕ら家族に怒りを撒き散らす、その怒涛のような八つ当たりには、さすがの母も小言を入れる隙もなく、ただ宥めるだけという有様でした。
怒りが怒りを呼ぶという悪循環。人間は真に激怒すると落ち着きを取り戻すのにかなりの時間がかかると、何かで読んだ記憶がありますが、正にそのような感じで、女子高生があんなことやこんなことを言ったと口にしては怒炎を吐く姉の言葉のなかに、僕は引っ掛かるモノを感じました。
姉はやたらと「おばさん」という単語に対して怒炎を吐いているのです。「おばさん」と言われて怒るということは、当然じぶんが「おばさん」だなどと思ってもいないから怒るのに相違ありません。

一般に、女性がおばさんになる境界線は何でしょうか。年齢でしょうか?容姿でしょうか?それとも、子を持ち母になったときでしょうか?ひとそれぞれの定義があるなかで、もっとも当てはまるのは、「女を捨てたとき」だと思います。その瞬間から、女性はおばさんになるのです。三十代でも四十代でも、きれいでセクシーな女性はいますし、子を持ち母となった女性も同様です。女を捨てたときから、女性はおばさんになる。


おばさん事件の後年、何かの折に姉と事件の話をしたことがあります。その頃にはもう、姉は結婚していて、子供もおり、すっかり「母親」という肩書きの似合う人になっていました。
姉は言います。「あのときあんなに怒ったのは、たぶん、おばさん呼ばわりされたことじゃなく、まだ私の中に青春の残り火みたいなモノがあったからだと思う。私にとって青春は学生時代で、当然、学生を卒業したらその時点で青春時代は終わり、社会人として、大人の女性になるんだって思ってた。区切りをつけたわけね。でも、あのとき、青春真っ盛りの当の女子高生におばさんって言われて、私の中の、燻ぶってた残り火が再燃しちゃったんだと思う。まだ私はおばさんじゃない、ちょっと前まであんたたちと同じ女子高生だった私が、おばさんなわけないってね。こころのどっかで青春が終わったってことを認めたくなくて、なんていうか、学生時代のときような、気ままで自由な子供のままでいたいっていう甘えがあったんだと思う。大人になった気でいて、でもそういう甘えがどっかに隠れてることをこころの深いところで無意識に認めてて、だからおばさん呼ばわりされたとき、図星をつかれたこころの歪みが、怒りとなって表れちゃったんだと思う。上手くいえないけど、そんな感じ」
ひとしきり話したあと、照れを隠すように「今では私もすっかりおばさんだけどね」と笑う姉をみて、なんだか置いていかれるような、悲しみのようなモノを感じて、胸が疼いたことを覚えています。


姉のいう青春時代に対しての見解は、納得できるようでできない、小難しい禅問答のようで、いまだによく分かりません。でも、いまはそれでいいのだと思います。人によって青春時代という観念の捉え方が違うのは当然であり、僕がよく理解できないのは、僕自身、青春時代という観念に明確な形を持てていないゆえなのですから。いずれ分かるときがくることを楽しみに、僕は共通テーマ「青春時代」と題したテキストへ、ひとまずのピリオドをうった。
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VIPでテキストサイト共通テーマ『踊り』

踊りといえば盆踊り。日本人なら当然の感覚、認識だと思われるが、近頃は町内会などで催される縁日特有の行事も、絶えて久しいところもあるとかないとか。そういった話を聞くと、どことなく寂しい気持ちになるが、永遠に続くモノなどこの世にありはしないのだから、致し方ないのかもしれない。興亡という語が示すとおり、何かが興れば何かは亡ぶモノなのである。

そうして亡びゆくモノの影で、新しい何モノかが胎動しはじめるのも、世の常なのだろう。どうやら現在の学校では、授業にダンスなる科目があるらしい。が、意味が分からないと思うのは僕だけだろうか。そんなモノはやりたいやつが嬉々としてやればいいだけであって、授業という名の強制にして学ばせる代物ではないだろう。そもそもダンスとはどんなダンスなのか。クラシックバレエ、モダンバレエ、ヒップホップ、レゲエ等々、両手に余るほどその種類は多く、たかがダンスといえども世界は広いのである。そういった種種雑多なダンスの中から、一体なにを基礎として学ばせるのだろうか。そもそもダンスの基礎とはなんなのか。一般的にはバレエだといわれているが、あんな固っくるしいダンスを、低学年か高学年か、何年生から学ばせるのか定かではないが、気が多く散漫になりがちなfucking kidどもに教え学ばせることなど出来るわけがないじゃないか。第一、誰が教えるというんだ? 体育大出の体育教師にダンス教育などとうてい無理、じゃあ専門の講師を雇いましょうねって、おい文部省! 血税をそんなくだらないぃ、云々。これはサンデーモーニングのご意見番こと大親分の故・大沢啓二ならずとも、「喝っ!」と言わざるをえない案件である。

さて、突然ですが盆踊りの思い出について語ってくださいと、この何とも言えない読感を変えるため、僕の中のリトルマーメイドが囁くものですから、突拍子もなくあいむそーりーなわけですけれども、思い出について、語ってゆきたいと思います。

海馬から盆踊りという語を抽出し、それからくる、最古の記憶を手繰り寄せてみたところ、思い浮かぶのは、なにやら賑々しいお祭りの情景と、私の手を握っているおばあちゃんの、枯れ木を思わせるしわっしわな手でした。私はたぶん、六歳か七歳。おばあちゃんが、賀寿でいう古希にさしかかった年齢で、「あんたの歳で割ればおばあちゃんは十歳ぐらいだよ」などと呆けたことを言っていましたので、まず間違いないと思われます。
そんなおばあちゃんが、私は好きではありませんでした。勝気で気難しく、事ある毎に小言を言わねば気がすまない、世間一般の嫌な姑像を丸写しにしたような荒い気性が、どちらかといえば繊細な私の気性に合わず、おばあちゃんを思い出すたび、季節毎の長期休暇に祖父母の家へ行くのが嫌で嫌で堪らなかった苦い記憶を想い起こします。
子は親に似ると言いますが、私の母も荒い気性で、姉も近いモノがあり、その子である姪も、どうやら根は荒いようで、ここまでは格言然もあらんといった感じですが、翻って私を含む男系を見てみると、尻に敷かれる気弱な男ども、といった按配で、どうも我が家系に限り、上記の格言は女系にしか通用しない話ではないかと、私は思います。

話を戻しましょう。記憶の中の賑々しいお祭りとはまさに盆踊りの最中で、私はおばあちゃんに手を引かれ、輪になって踊るあの奇妙な集団の中にいました。奇妙な音楽と集団の動きにつられ、おばあちゃんは陽気にはしゃぎ、どことなくぎこちない私を半ば引きずるようにして踊り歩きながら、盆踊り特有の民謡をうたう。
そんな極々普通の盆踊りの情景が、なぜ記憶に残っていたかというと、私の町の盆踊りは幾分変わっていたからだと思います。通常、盆踊りは中央に櫓を置き、その周りを輪になって踊るモノです。その点は変わりないのですが、規模、というか範囲が広大でした。というのも、盆踊りなどの行事がおこなわれる私の町の公園は、大きな池、というより小さな湖を囲んだモノで、学校の校庭の二倍はありそうな、広大な公園でして、湖の中央には、コンクリで拵えた人工島があり、湖のほとりの公園からは四方にアーチ状の橋が架かっている、そんな公園で盆踊りともなれば、奇異に映るのも無理はないというモノです。
さらにおかしなことには、余りにも長大で間延びしているからか、盆踊りのときには、四方に架かる橋の入り口に櫓を立てて、その一段高くなった舞台で、老若男女が創作舞踊を踊っていたこと、でしょうか。
創作舞踊とはいっても、凝ったモノではなく、単に様々な曲に合わせて思い思いに踊るだけなのですが、私がこのときの盆踊りを覚えている大もととなった踊りだけは、ある種芸術的だったのではないかなと思います。

思い返せば軍歌と分かる、しかしはっきりとは思い出せない、節ばった曲調にあわせて、しなびた柿を思わせるおじいさん達が、波打ち際に漂う海藻のようにウニョウニョと動いたかと思えば、錐形に並び、勇ましく行進する。今想えば艦船を想起させるその踊りは、なんというか奇妙な動きでありながら、なんとなく目を奪われる、そんな踊りで……。もっと記憶が鮮明なら詳細に書けるのですが、なにぶん昔のこととて、断片的にしか思い出せず、あの、子供心にも琴線に触れるような不思議な踊りを文章化できないことに苛立たしさを感じながら、私はそっと筆を置き、綴る手を止めてしまったのであった。
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『自殺スレ大量発生』のあらまし

2chに入り浸っていると、よく「趣味がない」という人の話を目にするが、これは間違いであると僕は思う。趣味といえば、スポーツや教養、創作といった物事を挙げるけれど、別にそれじゃなくても良いと思うのだ。一日のうちの何刻かを好きな行為に費やせば、それは立派な趣味だと言えまいか。
そう、好きな行為。よくやる事と言い換えてもいい。
例えば生活習慣にしても、食事や風呂が嫌いという人はそうはいないでしょう。美味しいと評判のお店で食事をしたり、健康ランドなどのリラクゼーションルームで身体を癒したり、そういう特別な事をしなくても、日々の些細な習慣が、当たり前の事ですが「好きな・よくやる行為=趣味」であると言えなくもないですよね。言えるはずです。少なくとも僕はそう考えます。

故に、私は声を大にして云う。趣味はつーちゃんねるであると。
匿名性が保たれた便所の落書きという気楽なぬるま湯にどっぷり浸かる。煽って卑屈な喜びに浸り、煽られて顔を真っ赤にし、そして時には、恥も外聞もなく自分語りに精を出す。そう、自分語り。政治に関する私見も、他人に対する意見も、言ってしまえば自分を語っているのです。意思の交換。それが気楽に出来ることがツーチャンネルの良さであり、入り浸る原因だと、愚考する次第です。

ですから、2chで「死にたい」と嘆く憐れな自分語りの叫びが、自殺スレ大量発生という珍事に繋がったとしても、別段、驚くような事ではありません。年間の自殺者三万人という数字が、潜在的な自殺者予備軍を物語っていますし、ほぼ毎日のように誰かが「死にたい」とスレを立てている現状をみると、不思議ではない、と言いたくはなるのですが、これが、とある一日のうちにおこった出来事であるという現実からは逃れられない。であるならば、何やらきな臭いモノを感じずにはいられませんよね。

仮にその日をスーサイド・デイと名づけましょう。現場は雑談系2カテゴリーの中では狼と双璧をなすVIP板です。スレッド保持数が六百前後の板で、ゴールデンタイムには十分ほどで、レスが無ければdat落ちしてしまうほど、人の多い板です。

事件の始まりは午後八時ぐらいでした。偶然、「死」を意味する文言がスレタイに入っているスレが、十数個ほど乱立しました。死にたいと嘆くだけあって、各スレの>>1は、レスが付く度にグチグチネチネチとレスを返していきます。誰かに聞いてもらいたくて仕方が無い、そんな悲鳴にも似た自分語りの熱は、そうそう冷めやしません。自然、各スレは勢いを上げていき、目に付きやすい位置に固まっていました。スレ番一から百の間に、十数個の「死」スレ。それだけのスレが立っていれば、確実に目に付き、そして異変に気づきます。あれ、なんかおかしいぞ、と。
そう思ったある一人が、悪戯心からでしょう、「自殺スレ多くね?」といった旨のスレを乱立したことが、このスーサイド・デイをスーサイド・デイたらしめた行いだったと言えるでしょう。

季節は夏、夏休み真っ盛りの時期です。「夏厨」という言葉が至る所で散見されるサマーデイズに、マナーなどどこ吹く風、便乗しない手はなかったのでしょう。あっという間に自殺スレが大量発生し、鎮火までに小一時間を要した、というのがスーサイド・デイの大まかなあらましです。

祭りとも言えない小さな小火騒ぎは、線香花火のような刹那の薄命に終わり、この事件も、ネット百科事典などでまとめられることなくその存在を抹消されるのでしょう。ですが、それで良いのです。ネットの大海、その場末の便所の落書き板など、その程度の存在が、丁度良い。それで、丁度良いのです。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
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共通テーマ『ワイルド』

今回、ワイルドというワードが共通テーマに選ばれたとき、はて、ワイルドとはなんぞや、と思い巡らしてみましたところ、なんといいましょうか、肯定的な意味での、ある種のカッコよさとしてのワイルドなイメージが思い浮かびました。
ワイルドを日本語に訳すと、野蛮だとか、野生的であるとか、そういった日本語を想起させますけれど、そういった日本語には、私の感覚では、たぶんに否定的なニュアンスを含んでいる気がしてならないのです。しかし一転、ワイルドと言葉を言い換えると、どこかカッコいいと思えてならないのです。

何故、そう感じてしまうのか。色々と考えてみたところ、どうやら異文化への無知や憧れが原因のような気がします。例えば、日本語に無理解な外人が、ファッションとして、日本人が見ると変な漢字のタトゥーを彫り込んでいたり、変な漢字入りのTシャツを着ていたときに、日本人はそこに可笑しみを覚えるモノですが、それと同じように、私のような英語に無理解な人間からすると、ワイルドというイメージは、日本語に無理解な外人が持つ日本語のイメージ、ニュアンスと一緒だと思うのです。
野蛮や野生、というと、動的なイメージがありますが、ワイルドには、どこか静的な、知的な野蛮さとでもいったような、対極にありそうな要素が内在している感じをもってしまう。
そう、知的というイメージ。何故か、ワイルドには知的なイメージを持ってしまうのです。そう感じてしまうのが、無知から来る異文化への憧れなのではないかと、愚考する次第ではあるのですが。

もう少し、具体的なイメージで考えてみましょう。例えば、ランボーシリーズで有名なランボーは、フィクションの世界の人物ですが、彼は正に野蛮だとか、野生的なイメージを体現していると言えます。ですが、ワイルドではない。私の感覚でいう、『知的』な野蛮さを感じない。
ドラゴンボールのベジータは、知的でありながら野蛮といったイメージにビッタリなのですが、ワイルドかと言われると、そうは感じない。何故なら低身長だから。体格が醸し出す風格、豪快さが彼にはない。
豪快であること。もう一つ、私の中のワイルドというイメージに必要な要素が出てきました。知的で、野蛮で、豪快。それはどんな人でしょうか。どうも当て嵌まりそうな人物が思い浮かばない。

ここまでつらつらと考えているうちに、知的でなくても良くはないかと思えてきました。要は、カッコよせさえすれば、私の感覚でいうワイルドという言葉のニュアンスに符号するような気が。しかし、ランボーがカッコいいかと聞かれると、うーん? となりますし、ベジータは? となると、うむむ? と唸っちゃいます。具体的なイメージを、どうも持てない。

とすると、やはり私は、ワイルドという言葉を、きちんと理解していないのでしょう。漠然としたカッコよさ。それが私のワイルド。ということでさようなら、また(書けるか分かりませんが)来週。

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