「ねえねえあれとって」
「あれって何よ。ちゃんと言いなさい」
「母さん、相手にするだけ無駄だよ。だって馬鹿なんだから」
「うっさい、馬鹿。馬鹿って言う奴が馬鹿なんだよ馬鹿兄」
「女のクセにその言葉使いはどうなんだよ。おまえ、彼死できたことないだろ?」
「はあ? 万年童貞のあんたにいわれたくない!」
「うるさい! 夕飯だ。静かに食べなさい」
ごく普通の家庭の、普遍的な晩餐風景。一家の大黒柱である父親は世間の荒波に揉まれすぎたせいか、寂しい頭皮を世間に晒し、母親は怠惰な生活のためか風船のように丸く、そのくせ家事の大変さをこれ見よがしに熱弁し、息子は大学受験を控えているにも関わらず、友人達と青春に逃避し、娘は中学という思春期真っ只中の年齢のためか、常に乱気運を背負っているようだった。まことにごくごく一般的な、秋の夜長の夕食の席である。
「誠司、模試の結果、どうだったの?」
母は半ば諦め顔ながらも、目に若干の期待を込め、誠司に問うた。
「ん? まあ、ぼちぼち、かな」と、誠司は散々だったはずの模試を、小さなプライドを守るために嘘を付く。
「あら、そう? これからが大変でしょうけど、頑張ってね」と母は内心の疑心を隠し息子を応援した。
「だいじょぶだよ、受からないほうがおかしいって話じゃんあの大学。まあ、兄は家族の期待をいつも裏切ってからどうなるか分かんないけど」
「うるさいんだよお前は。つか、お前も来年は受験じゃん。偏差値五十以下なんだから、自分の心配したらどうだ?」
「そうよ、祥子。今の成績じゃ、まともな高校には行けないわよ。もう少し頑張んなさい」
祥子は口を開きかけたが、つと思い直し、再び母に催促した。
「ねえ、あれとってよ」
「だから、あれ、じゃ分かんないでしょ。お母さんはエスパーじゃないのよ」
「だって度忘れしちゃったんだもんしょうがないじゃない」
「んなら自分で取ればいいだろ。我侭いってんなよ馬鹿」
「また馬鹿って言った! ばかばかばーか!」
「うるさい、と言ってるだろう! 静かに食べんか、まったく」
父の怒声が居間に響き、一瞬、静けさが襲った。その時、どこからともなく飼い猫のミーが現れ、腹が減ったと鳴き始めた。
「あっ、ミーったらどこ言ってたの? はい、ごは――」用意しておいたキャットフードを手にした祥子に、天啓が舞い降りた。
ご飯――そう、そうだったわ、ご飯よ!
「ご飯ですよ!」祥子の叫声は、隣近所にまで響き渡ったそうである。秋の夜長の、ごくごく一般的な、晩餐風景であった。 〔了〕
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