散文誌

日記・小説

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擬似

突然、何の脈絡もなく、無性に何かを破壊したくなるときがある。例えば宅配便で届いたダンボールを、強引にエッチするとき服をビリビリに破くような感じで、両手で左右に引き裂きたくなるんだ。そのとき、「オラぁ!」とか「どうだぁ!」なんて言いながらグチャグチャに破壊する。そして「思い知ったかこのやろう!」と捨て台詞を吐いて、ゴミ箱に叩きつける、あの快感、あの開放感が、日々の鬱屈を解消する一助となっている。別段、不思議な事でもなんでもない話だ。

破壊の衝動は誰しも持っているモノである。子供のころ、昆虫などを殺したり、廃屋になった家や工場で物を壊したりした経験は誰にでもあるだろう。大人になれば精神的に成熟し、倫理、道徳、常識といった理性の壁が、破壊衝動を抑制させ、馬鹿げた行動を慎むようになるのだが、果たしてそれは良い事なのだろうか?

もちろん、人や動物を傷つけるのはいけないことだ。そういった犯罪行為に繋がる衝動は押さえ込むべきである。だが、抑圧すればするほど衝動という名の爆弾は大きくなり、ちょっとした火種が導火線に火をつける、なんてことになりかねない。どこかで開放してやらなければ、「そんなつもりはなかったんだ」などという犯罪者の定型文をいう羽目に陥りかねないのだ。

ではどのように衝動を開放するのかというと、疑似体験、である。冒頭で、僕がダンボールを女性の服に見立てて引き裂いたような、誰にも迷惑をかけず、傷つけもしない無害な疑似体験だ。
妄想でいいじゃん、なんて声が聞こえてきそうだが、頭の中だけで完結する妄想ではダメなのだ。物足りない。どこかすっきりしない。
しかし、擬似的に身体を動かすことによって、その妄想は疑似体験へとステージをあげることができるのだ、といってもなんだか分かりにくいな。どういえばいいんだろう。
たとえば3D対応の映画を、3D眼鏡を通して観るか観ないかの違い、とでもいった感じだろうか。女性のお尻を模したオナホールで擬似セックスをするのは疑似体験である、みたいな。
とにかく、頭の中だけの妄想では得られないモノが、擬似体験にはある、ということだ。そしてその疑似体験が、たとえ禁忌に触れる行為であったとしても、擬似的なフィルターを通していれば、理性の扉の鍵を開け、抑圧された衝動を解き放ってもいいのではないかと、僕は思うのである。

馬鹿になる、ということ。子供の頃やっていた一人遊び、お人形ごっこのような感覚で、心の底に澱んでいる人には知られたくない、見せたくはない衝動を、開放してみてはどうだろうか。

「数十メートル先を歩いている女性のお尻の辺りに手をおいて、まるで痴漢しているかのようにまさぐる。女性は気づいていないし、ボクはハッピー。誰も傷ついていないじゃないですか」と、ケンコバが言っていた。つまりはそういうことである。
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