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日記・小説

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消費される文章の在るべき場所

文章は鏡のようなモノだ。一卵性双生児でも完璧な類似はあり得ないように、完全なる同定は不可能である。必ずその人その人の顔が浮かび、感性が浮き彫りになる。個性の鋳型。

言語性多重人格なる言葉があるが、そんなモノは言葉のまやかしに過ぎない。鏡の中で角度を変えれば見えてくるモノもおのずと違うように、新たな一面を見出したとしても、個性という多様性の枠に収まれた一幅のぶれに惑わされているだけだ。個性とは簡単明瞭に図れるモノではない。

しかしそうは言っても、魅力がなければ誰も見向きもしないのが現実だ。興味を持たれなければ唯一の個性も車窓を流れる風景と同じであり、ただそこにあるモノとしてしか認識されない。せっかくの鋳型も乱造された人形と一緒で、一つ一つの個性、言わば魂にまで目を向けようとはしない。

人の目に触れる場所にある文章というモノはデフォルメされた個性である。苦味や辛味といったスパイスを盛り込み、素材の味をどうにかこうにか粉飾しようとする。誰かに見て咀嚼して欲しくて、素材そのモノの味を楽しんで貰おうとは決してしない。無意識の内にレシピを作り、何かしらの味付けをほどこす。

では素材そのモノの文章とはどういった文章か。作為のない文章とはなんぞや。

個性に純粋たる文章とは、脳裏を縦横無尽に駆け巡る恣意の奔流を綴った言葉の流れのことである。論理性や明確さといった作為に満ち溢れた設計図を跳ね除け、あくまで自然そのままの心の混沌を綴ったモノこそ、個性に准じた文章と呼べるのではなかろうか。

写実ではなく前衛のような文章こそ、各人が持つ個性を純然に醸し出す最高の方法であると僕は思うとともに、そんなモノ誰が読みたがるのかとの疑問が渦巻く午前五時。
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