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共通テーマ『青春時代』

僕が貴重な青春の時代を散漫と過ごしていた頃、姉がカツアゲされそうになったことがある。当時、姉は二十代の中頃で、事務職に就いており、まだ結婚はしていなかったが、ご多分に漏れず週末となると、どこそこへ遊びに出かけては夜遅くまで帰ってこない、といった、どこにでもいる女性であった。
そんな姉に母が小言をいう度、姉は「もう子供じゃない」などと返す。そんな光景が当たり前のようになり、ただ過ぎ去っていく日常の一コマとなりおおせた頃、事件はおきた。



事件当夜は雨であった。朝から降り続く雨は夜になってもその蛇口を緩めず、かえって勢いを増していくような空模様は、大地を歩く人間にも影響を与えずにはおかなかったらしい。いつもなら人の多い街も、どことなく閑散としていて、そのせいかどうか、その日の会食も早々に引けてしまったそうである。(確かその日は金曜日だったはずである。姉が花金と言っていた記憶があるので間違いないはずだ。しかし花金とは妙に古臭い言葉である。当時も既に死語となっていたはずの言葉を、なぜ姉は使っていたのか。今にして思えば奇異に感じるが、より奇妙なのは、当時、姉からその言葉を聞いていたはずの僕はどう感じていたのか、まるで思い出せないということだ)

花の金曜日の集いが早々に終わり、帰り道が一緒の友人と駅へと向かう道中。数人の、女子高生のグループが道を塞ぐようにまえを歩いていて、尚且つその歩みが遅々としたモノであったためか、はたまた雨で濡れる足元の不快感のせいなのか、とにかく姉と友人は非常に苛々したらしい。(気持ちはよく分かる。学生ってのはどうして公道であるはずの道を我が物顔で歩くのだろう。世界は自分たちを中心に回っているとでも言わんばかりじゃないか。その若さが、青さが、憎々しくてたまらない。だから僕は、想像の眼を使って、奴らの傲慢にむくいてやるのだ。女どもには衣服を一枚一枚剥ぎ取り、公共の面前で素っ裸にしたあと、これでもかと姦淫の罪を着せ、不可視の射精の飛沫でその若さに溢れた身体を穢しに穢してやる。男どもには?死、あるのみである)

苛立ちを募らせながら、ようやく追い抜けそうな幅と長さのある交差点についたとき。姉たちはここぞとばかりに、信号が青になるまで、聞こえよがしに悪態をついたのだが、当の女子高生たちは完全に無視を決め込んでいる。怒り心頭にたっした姉たちは、信号が青になるやいなや、わざと傘に傘をぶつけて追い抜いてやったそうである。傘から落ちる水滴がもろに身体にかかったのか、後ろから女子高生の罵声が飛んだが、姉たちは無視してその場をあとにしたそうだ。(さて、この時点で後の事件を惹き起こした非はどちらにあるのかを考えると、陪審は軒並み、非は姉にありと見なすであろう。発端は女子高生たちが道を塞いでいたからであるが、それは大人として、姉が注意すれば穏便に済んだことである。母が小言をいう度に、姉が「もう子供じゃない」と返していたとおり、子供じゃなく大人であるのなら、簡単に済んだ話なのである。当時、上記のことを言うと、姉は「確かにそうね」と認めたあと、やにわに反論しだした覚えがある。やいのやいのと反論する姉は、その実、非など一片も認めていないのだと思わざるをえなかった。本当に非を認めているのであれば、反論などしないモノである。そんなことも分からず感情でモノをいう姉を見るにつけ、「女は感情で生きる生物」だと貶められるのも已む無しかなと思わざるをえない)

駅につき、路線の違う友人と構内で別れたあと、姉がホームで電車を待っていると、先ほどの女子高生たちが同じホームに入ってきた。ぴーちくぱーちく囀りながら姉のほうに向かって歩いてくる。姉は内心、ヒヤッとした(あとで話を聞いたときには、一言も漏らさなかったが、姉の人となりを知っている僕としては、ヒヤッとしたのではないかと思う)が、女子高生たちは近くにきただけで、会話に夢中になっているようだった。一安心したのもつかの間、漏れ聞こえてくる会話が、なにやら不穏当である。

女子高生A「マジであの女さいあくじゃない?」
女子高生B「ほんと、Aちゃん濡れちゃってかわいそー」
女子高生C「シミになってるじゃん、さいてー」
女子高生ABCetc.「ぴーちくぱーちく」

遠まわしの挑発。姉はキッと睨んだあと、こう思ったそうである。雨でシミになるわけないじゃない!

姉の眼光を真っ向から見返して、女子高生Aは言ったそうである。「なに睨んでんのおばさん」

そうして口喧嘩が始まり、やがてクリーニング代を出せ、出さないの押し問答が永久ループに入ったところで、駅員があいだに入り、事なきをえた、というのが事件、いや、おばさん狩り事件の顛末である。

家に帰ってくるなり、姉は事の顛末を盛大に捲し立て、僕ら家族に怒りを撒き散らす、その怒涛のような八つ当たりには、さすがの母も小言を入れる隙もなく、ただ宥めるだけという有様でした。
怒りが怒りを呼ぶという悪循環。人間は真に激怒すると落ち着きを取り戻すのにかなりの時間がかかると、何かで読んだ記憶がありますが、正にそのような感じで、女子高生があんなことやこんなことを言ったと口にしては怒炎を吐く姉の言葉のなかに、僕は引っ掛かるモノを感じました。
姉はやたらと「おばさん」という単語に対して怒炎を吐いているのです。「おばさん」と言われて怒るということは、当然じぶんが「おばさん」だなどと思ってもいないから怒るのに相違ありません。

一般に、女性がおばさんになる境界線は何でしょうか。年齢でしょうか?容姿でしょうか?それとも、子を持ち母になったときでしょうか?ひとそれぞれの定義があるなかで、もっとも当てはまるのは、「女を捨てたとき」だと思います。その瞬間から、女性はおばさんになるのです。三十代でも四十代でも、きれいでセクシーな女性はいますし、子を持ち母となった女性も同様です。女を捨てたときから、女性はおばさんになる。


おばさん事件の後年、何かの折に姉と事件の話をしたことがあります。その頃にはもう、姉は結婚していて、子供もおり、すっかり「母親」という肩書きの似合う人になっていました。
姉は言います。「あのときあんなに怒ったのは、たぶん、おばさん呼ばわりされたことじゃなく、まだ私の中に青春の残り火みたいなモノがあったからだと思う。私にとって青春は学生時代で、当然、学生を卒業したらその時点で青春時代は終わり、社会人として、大人の女性になるんだって思ってた。区切りをつけたわけね。でも、あのとき、青春真っ盛りの当の女子高生におばさんって言われて、私の中の、燻ぶってた残り火が再燃しちゃったんだと思う。まだ私はおばさんじゃない、ちょっと前まであんたたちと同じ女子高生だった私が、おばさんなわけないってね。こころのどっかで青春が終わったってことを認めたくなくて、なんていうか、学生時代のときような、気ままで自由な子供のままでいたいっていう甘えがあったんだと思う。大人になった気でいて、でもそういう甘えがどっかに隠れてることをこころの深いところで無意識に認めてて、だからおばさん呼ばわりされたとき、図星をつかれたこころの歪みが、怒りとなって表れちゃったんだと思う。上手くいえないけど、そんな感じ」
ひとしきり話したあと、照れを隠すように「今では私もすっかりおばさんだけどね」と笑う姉をみて、なんだか置いていかれるような、悲しみのようなモノを感じて、胸が疼いたことを覚えています。


姉のいう青春時代に対しての見解は、納得できるようでできない、小難しい禅問答のようで、いまだによく分かりません。でも、いまはそれでいいのだと思います。人によって青春時代という観念の捉え方が違うのは当然であり、僕がよく理解できないのは、僕自身、青春時代という観念に明確な形を持てていないゆえなのですから。いずれ分かるときがくることを楽しみに、僕は共通テーマ「青春時代」と題したテキストへ、ひとまずのピリオドをうった。
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