散文誌

日記・小説

Category: 日想  

無理無体

午睡などでまどろんでいるとき、夢と現実の区別がつかなくなることが往々にしてある。いや、区別がつかなくなるという言い方はなんだか分かりにくいな。夢、もしくは妄想の檻に囚われたまま、頭の中の世界が現実だと認識してしまう、という感じか。そしてその感じはしっかりと目覚めるまで続き、まどろんでいる限り、仮想の霧は一向に消えやしない。
つくづく思う、不思議だなぁと。あるときは以前働いていた職場でのことであったり、または学生の頃のことであったり。覚えているのは主に過去での出来事だ。正確にトレースしている場合もあれば、全く違う理想の自分が、理想の過去へとリメイクしていたりもする。
夢を見ることには何かしら意味があるんだろう。フロイトだかなんだか知らないだが、僕は心理学が嫌いだ。でも興味はある。けれども、心理学に関連する書物、テキストを読んでも、一向に頭に入ってこないんだ。意味を理解しようとする気がおきない。重ねて言うが、興味はあるんだ。でも理解する気になれないんだよ。分かるかな、この気持ち。心理学という学問がどういう学問なのか、大して知りもしないのに、何故か毛嫌いしてしまうんだ。どうしてだろうね?

ところで指を切ったんだ。でも血は出てなくてね。よくみると甘皮だけを切ってる。2ミリぐらい、直線にスパっと。どうして切ったのか、まるで覚えがない。朝起きたときは切れてなかったんだ。でも、夜になってふと指を見てみると、切れてた。どこで切ったんだろう? その日一日の行動を思い出してみても、指が切れるような作業やアクシデントに見舞われた覚えがない。でも切れてる。どうして切ったのか、不思議でしょうがなかったから、聞いてみたんだよ、指に。どうして切ったんだ、おまえって。すると指はこう言うんだ、おまえは知っている。でも思い出したくないだけなんだよって。不思議なことを言う指だなと思ったよ。だって指は喋らないしね。しょうがないからゲームを始めたんだ。でも指がいうこと聞かない。おいちゃんとしてくれよ、ゲームができないじゃないか。僕はそう言って指に抗議したんだ。当然だよね、僕の指だもの。でも指は僕に対して中指を立ててきた。ふぁっくゆー。そう聞こえたよ。だから僕は制裁を加える事にした。指を叩いたんだよ、ふぁっくゆーしてる指をね、こう、ピシッと。すると、指は指を引っ込めて、僕の手が握りこぶしになってたんだ。それをみて、僕はどこかがヘンだと思った。切ったのは人差し指。でも僕の手は握りこぶしになってる。おかしいよね。そもそも僕はゲームをしてたんだからコントローラーを握ってたはずだし、中指が指を立てるのもおかしいじゃないか。僕は問い詰めた。おまえは僕の手を操れるのかと。すると突然、握りこぶしだった手がパッと開いて、こう言うんだ。そうだよ。俺はおまえを操れる。だからお前に仕返しをすることも可能なんだ、知らなかったのか? 僕はぞっとして、反射的に指に制裁を加えようとしたんだけど、上手くいかない。コントロールがきかないんだ。よく見ると僕のもう片方の腕が石になってる。驚いた僕に、指が言うんだ、ほらみろ、お前のせいだぞ。お前のせいでこうなったんだ、だからお前の顔もこうしてやる。言い終わると同時に手が顔に襲ってきて、僕の目をぞりっと削いだ。鋭い痛みが走って、ぬめっとした液状のモノが目から溢れ出してくるんだ。どくどく、どくどくと脈打つ液体が顔を染めていく。見えるんだ、自分の顔が。鏡もないのに。鋭利な傷口から、真っ赤な血が僕の顔を染めている。血はどんどん溢れ出して、いつのまにか僕は血の海に浮かび、真っ赤に染まった視界の中で、指が僕の頭を押さえつけ、こう言った。お前が悪い。お前のせいだ。お前を呪え。僕はゆっくりと血の海の中に沈み込んでいく。ああそうだ、僕が悪かったんだ。ゆっくりと僕は沈んでいく。僕は眠りつくんだ。ゆっくりと沈んで、底についたとき、ああ、眠れる。そう思ったのに、指が起きろと言うんだ。不思議なことを言うやつだと思ったよ。お前が沈めたんじゃないか。いいから起きろと指がいうんで、しょうがなく目を開けたところ、そこは血の海でもなんでもなく、現実の僕の部屋だったんだ。

しっかりと意識が覚醒して、夢だと分かったとき、ヘンテコな夢を見たと思ったよ。熱帯夜のせいかな? 一つあくびをして眼をこすると、まぶたにぞりぞりする感触がしてね、おや、もしかしてと思い、指をみてみると、指が切れてたんだ。でも血は出て無くてね、よくみると甘皮だけを切ってる。2ミリぐらい、直線にスパッとさ。どうして切ったのか、まるで覚えがない。昨日、寝るまでは確かに切れてなかったんだ。どうして切れたんだろう? 不思議なこともあるもんだ。僕はトイレに行き、珈琲を淹れ、気だるげに紫煙をくゆらしながら、今日も憂鬱な一日が始まることにため息をついた――。
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習慣は第二の天性

習慣は第二の天性というように、これまで慣れ親しんできた習慣という檻からは簡単に抜け出せない。
例えば口癖。よく電話で、挨拶する前に、「あっ、何々です」と、頭に「あっ」をつける人はよくいるでしょう。ちなみにうちの母親は「マジに」をよく使います。一度ツッコんだことがあるが、どうやら「マジで」を間違って覚えてしまって、それを誰かに指摘されたところ、間違えていたことが恥ずかしかったらしく、意地でも認めず使い続けていたら、いつの間にか口癖になっていたそうです。僕はそこにジェネレーションギャップと可笑しみを覚え、なんだか笑ってしまいます。だって微笑ましいひとコマじゃないですか。
僕はよく「そうそう」を「そそ」と短縮して言うんですが、子供の頃、おばあちゃんにたしなめられて以来、祖母のまえでは使うのを控えていて、子供心に何故だろうと思っていたのですが、今思えば、祖母の気持ちも分かります。それは「そそ」という言葉が、ある種の年代の人や読書家、知識人には、子供が言う言葉ではないという認識があったからでしょう。そんな思い出を胸に、今日は「そそ」に関連することでも書いてみようよそうしよう。


僕が始めて女性器の俗称であるところの「まんこ」という固有名詞を聞いたのは、オナニーさえ未だ経験したことのない、まさしく純粋な小学五年生の頃でした。兄の友人がふらっと我が家に遊びにきたとき、「まんこって知ってるか?」と聞かれた僕は、素直に「まんこってなに?」と問い返したところ、彼は笑って「まだまだ子供だな」なんて小馬鹿にされた記憶があります。

彼の思わせぶりな謎の言葉と、子供扱いされた悔しさのようなモノが、僕に、「まんこ」に対する探究心を与えました。「まんこ」ってなんだろう、どんなモノなんだろう。子供らしい純真さと芽生え始めた自尊心の屈折した欲求が、片手で数えるほどしか触れてこなかった辞書に手を向けさせました。さっそく辞書をひらいてマ行を調べてみるも、なぜでしょう、載っていません。現在の辞書には記載されているモノもあるようですが、あの頃の辞書には載っていなかった。はてさて、僕は弱りました。何でも載っていると思っていた辞書に、「まんこ」なんて記述はどこにも見当たらなかったのです。

当時、僕には友達と呼べる間柄の他人はいませんでしたから、仲が良いわけでもないクラスメートに聞くなんて、ノミの心臓の所持者である僕には到底不可能。兄や、その友人に聞くというのも癪であり、気が進みません。どうにかして「まんこ」なる謎の言葉の秘密を解き明かさねば気がすまない。
あの頃の自分を脳内メーカーで診断すれば、「まんこ」で埋め尽くされていたことでしょう。

そうして悶々としながら、一月ほど経ったある日のこと。兄にRPGのレベル上げだけをさせられるという苦役に就かされていた僕は、その日も黙々とモンスターを狩り続けていました。しかしそのRPGはウィザードリィという、たとえ雑魚でも油断すれば死ぬこともよくあり、尚且つ死んだキャラクターは復活しないシビアなゲームでしたので、兄に「このモンスターには注意しろ」などといった忠告を受けていたのですが、単調な作業というモノは注意力を散漫にしがちです。ただでさえ「まんこ」という大いなる謎に向かい合っていた僕にとって、そのように単調な作業は不幸にもキャラクターの死という結末を迎えることは必至でした。

さてさて、困りました。兄が知れば激怒することは間違いありません。また1からキャラクターを再現させることなど時間的に不可能。困り果てた僕は、自暴自棄になり、暴挙に出ました。当時のゲームはカセットロムで、衝撃を加えたりすると、よくセーブデータが消えることが多々あったのです。今思えばそんな極端なことをしなくとも、また1から作り直せば、たとえ元のレベルまでに再現できなくても、兄の怒りは幾分収まったことでしょう。
しかし幼さとは愚かさと表裏一体です。そんなことは考えも及ばず、カセットを投げてはデータが消えたか確認し、投げては確認し。絶望の淵へと片足を沈みかせた何度目かの投擲が、雑誌が処狭しと並んでいる兄専用のカラーボックスの、わずかな隙間にはまり込んでしまい。ちょうど雑誌と上板の隙間を通り、わずかに空いていた裏のスペースにすっぽりと。
恐怖と焦燥感に半ば泣きべそをかきながら、雑誌をどかしたところ、捲れた雑誌の一つから、なにやらカラフルな図柄の、雑誌の切り抜きのようなモノが顔を覗かせているではありませんか。思わずなんだろうと手に取ってみると、それは漫画のようなキャラクターが、とてつもなくエッチな格好やポーズをしている珍妙な構図満載の切り抜きで、「コレは一体なんなんだ……?」と、数瞬の間、思考がフリーズしました。無理もありません。それまで僕が目にしてきた性的なモノといえば、少年ジャンプなどの健全なエロだったのですから、膣に陰茎がはまり込んでいる絵など想像の埒外、性的なキャパシティを超えていたのは当然なのです。
そしてつかの間の呆然から強烈な引力をもって僕を引き戻したのは、テキストの、「まんこが云々」などという文言でした。僕はまさに雷に打たれたかのような衝撃、いや、ヘレン・ケラーがwaterをwaterと認識したときのような衝撃を覚えたのです。そうか、そうだったのかと。まんことは女性のアソコのことだったのかと。

そう、僕はついに開眼したのだ。かつてセスタスが最高のカウンターを開眼したと同じように、

、『その感動は深く肉体(記憶)に刻み込まれ、終生忘れぬ自分だけの財産となる』

のである。
そしてその感動は僕を有頂天にし、女性を除いて誰彼となく「そそ、まんこってのは女のアソコなんだよ」と吹聴し、それがきっかけで初めての友達を得ることになるのだが、それはまた別の話。
僕はいまでも、まんこに関する話題には、「そそ」と持ちかける。それは「そそ」が女陰の隠語であるからなのであるが、大抵の人間はそんなことは知らず、僕の、他人からすれば意味の分からない自己満足の密かな楽しみは今後も続いていくことだろう。
ほら、今も夜更かしをしているイけない女の子がツイキャスに蔓延っている。僕は気に入った子の配信をひらき、密かにほくそ笑みながらコメントをそっと打つのだ。

「そそ、知ってる? マンコってさ――」
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狩人の葛藤

こんな深夜に更新なんて珍しい事この上ないのですが、なにせね、さぁ寝ようというときに巨大Gが出没し、奴を殺さねばとてもじゃないが眠れない、ってことで、こんな時間まで起きざるをえなかったわけなんですけれども、しかしね、毎度思うんですが、当然殺される覚悟で我がテリトリーに侵入を試みたくせに、あんだけ必死こいて逃げ回るとは一体全体どういう了見なんでしょうかね?
いやいや、虫ごときが人間様のように思考できるとはこれっぽっちも思ってはいませんよ? でもね、ふと思ったんですよ、こいつ、もしかして……なんてね。もしかしてもしかしちゃって、てめぇおちょくってんじゃねぇのか、なぁんてね、ええ、ふっと思っちゃったわけでしてね。ほら、輪廻転生ってのがあるじゃないですか、あれ、もしかして……なんつってね。いえいえ、本気で考えてたわけじゃぁございません、もぉしぃかぁしぃたぁらぁ? ぐらいの、かる~い気持ちでね、ちょいと四方に目を配りながら、その辺のことだいぶ脱線しながら、まぁぐだぐだ考えてみたんですよ……。



普通の人間は理解できないモノに直面すると、恐怖を感じたり、拒絶反応を示すもんだ。理解を拒む。それは己れの培ってきた常識や世界観を壊しかねない危険な代物だと、自己保全の本能が告げるからである。人はそれまで信じ、積み重ねたきた慣習という名の自我を、急激な変化から守るために遠ざけようとしてしまうモノなのだ。特に自尊心が強く、愚かな人間は自分の尺度でモノを考え、行動する傾向にある。しかもそういう人間に限って、権力の高みに昇ってしまうことは歴史が証明している。
だからこそ人類の歴史に愚は尽きない。

さてここで一つ、仮定の話をしてみよう。もしも僕が、あなた方の子供であり、人間でない異質なモノだったとしたら、あなた方はどうするだろうか。もちろん仮定の話ではあるが、真剣に考えてみて欲しい。そしてあなた方にとって、僕という存在は愛すべきモノだったとしたら。あなた方は僕に対して恐怖を感じ、拒絶するのだろうか。それとも、愛ゆえに異質である僕という存在そのモノを受け入れようとするだろうか。または愛ゆえに、拒絶しつつも何とか元に戻そうとあらゆる手を尽くすだろうか。はたまた、愛ゆえに僕を始末しようとするのだろうか。

どの方法も、愛ゆえの行動であることをまず断っておきたい。たとえ自己本位な愛だったとしても、それは愛である。人間でない異質な僕という存在を受け入れ、人間同様愛そうとするのは薔薇の愛だが、僕は成長するにつれ様々な困難に遭い、障害に道を阻まれるだろう。親の愛と世間の冷遇、その対比が大きければ大きいほど、僕はとても辛い思いを味わうことになるのは明白です。そして目ざとい政府機関は僕という存在の秘密を暴こうと拉致監禁しては生体実験なり行うと画策する、ということはニック・ハロウェイの例を挙げるまでもないでしょう。人間は欲望のまえには忠実です。人類の発展ないし科学の進歩という煌煌しい建前のために、僕は人身御供に等しい状況に置かれることは明々白々でしょう。「人生は人間に、大いなる苦労なしには何も与えぬ」とはホラティウスの言ですが、僕はあいにく人間ではありません。異質な何モノかなのです。苦労したところで得られるモノはほんの一握りの幸せと、実験動物としての末路。それが愛ゆえの結末だとするならば、なんという皮肉でしょうか。

愛ゆえに元に戻そうとあらゆる手を尽くそうとしても、上記の運命と大して変わらぬ末路を迎えることでしょう。
では、愛ゆえに僕を始末することはどうでしょうか? 別の愛し方をしても、上記のような末路を迎えるのならば。そうならば、いっそのこと、親の手で、愛するわが子を今生の苦しみから救うことも一つの愛の為せる技です。子殺しは大罪です。しかし、辛く苦しい運命を背負うわが子はみるに忍びない。ならばいっそのこと、この手で……っ!

そうして僕はようやく現れたGを叩き潰し、遺体現場の殺菌消毒を済ませ、メモ帳をそっとGするのであった。
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眠れない夜

就寝時に悶々として寝られない日、あなたは一体どうしていますか?


先日、とある会合で同席者から「君ってナマケモノなんだねぇ」と言われたので、僕は会話を盛り上げようと「そうなんです、よく木にぶらさがったまま何時間も、ぼーっとしてて……。これはこれで大変なんですよ、ハハ」なんて返したら、「ああ、そう……」と真顔でいなされ、その瞬間、大いなる後悔と羞恥心に居た堪れなくなり、思わず飲めもしない酒を呷ったところ、「それ、俺の酒なんだけど?」と威圧感たっぷりにキレられた現代のレ・ミゼラブル、どうもこんばんみ。

こういった嫌な記憶というモノはなかなか消せるモノではありません。特に就寝時、さぁ寝ようと思っても、しばらくの間、しつこく、ねちっこく、ことある毎に脳裏を過ぎっていくことでしょう。ありがちなメンタルコントロール関連の方法には、頭の中にゴミ箱のようなモノをイメージして、その中に嫌な記憶をボッシュートする、などと書かれていますが、そうそう上手くはいきません。自己暗示の得意な変態はたやすくこなせるのでしょうし、得意ではなくとも、根気よく続けることのできる性質、つまりは努力を怠らない人間には可能な方法なのでしょうが、あいにく、僕はナマケモノですので、そういった方法は性に合わないこと明白です。

ではどうやって嫌な記憶から意識を逸らし、つかの間の安眠を掴み取るかというと。もうこれは「綿のように疲れる」という表現が当てはまるほど、とことん体を酷使し続けるしかないのです。別の方法も試みてはみましたが、どれも功を奏しませんでした。

失敗例

1・『オナニー』
普段なら気持ちの良いはずのマスターベーションが、心に暗雲の垂れ込める状態でとなると、どうも興が乗りません。僕の好みはAVではなくIVの、あの秘部は見せないキワどさなのですが、ダークゾーンに陥ったままではチン子に響かないのです。射精に至るにはこの鬱屈をぶつけ、燃焼させねばならないとしたら、もう陵辱モノしかないのではないか。「僕と同じ気持ちを味わわせてやる」。普段なら表に出てこない醜悪な欲求を、異性をいたぶる疑似体験を通して開放し、この心にまとわりつく粘っこいシロモノを射精と共に放出させるのです。結果、最中は忘却できますが、直後に来る虚脱感と、擬似とはいえあのようなひどい行為を嬉々としてやってのける邪悪さへの疚しさが罪業妄想を刺激し、記憶の鬱屈と相まって、最悪の相乗効果をあげること間違いなし。ジャック・ケッチャムやジョン・ソールの小説を読了した後のような気分。最低の試みでした。

2・『アイドル』
元々ドルオタではなかった僕ですが、既に引退、というより休業? している道重さゆみさんにハマり、ハロープロジェクト、略してハロプロ関連のアイドルをよくチェックしていまして。普段なら癒されるはずの、アイドル達の可愛らしい仕草や花顔が、ダークゾーンに陥った僕には一転して、アイドル特有の振る舞いは鼻に付き、コピペしたような笑顔がサイボーグのように見え、鈴を振るようだった声音が耳に障り、なぜこんなしょうもない三流品に心を奪われていたのか不思議でしょうがなく、小便臭いガキにうつつをぬかしていた自分に嫌悪してしまい、これまた失敗の試みでした。

他にも小説や漫画、映画やドラマなど、色々ありますが、所詮、一時凌ぎにしか過ぎないのです。ほんのひととき忘れられていても、ふとした瞬間、嫌な記憶が脳裏を過ぎる。どうしても思考してしまう。そこから逃れ、安眠を迎えるためには、思考する余裕を失くすことこそ、最高の方法なのです。

※睡眠薬を使う手もありますが、おススメはできません。個人差はあるでしょうがすぐに耐性がつき、 量が増えたり、もっと強い薬を所望するようになるからです。嫌な記憶から逃げたいだけの一過性 の不眠症みたいなモノには適切ではありません。

綿のように疲れ果て、泥のように眠る。それこそが、最低にして最高の方法だと思う次第です。
Category: VIPでテキストサイト『共通テーマ』  

VIPでテキストサイト共通テーマ『踊り』

踊りといえば盆踊り。日本人なら当然の感覚、認識だと思われるが、近頃は町内会などで催される縁日特有の行事も、絶えて久しいところもあるとかないとか。そういった話を聞くと、どことなく寂しい気持ちになるが、永遠に続くモノなどこの世にありはしないのだから、致し方ないのかもしれない。興亡という語が示すとおり、何かが興れば何かは亡ぶモノなのである。

そうして亡びゆくモノの影で、新しい何モノかが胎動しはじめるのも、世の常なのだろう。どうやら現在の学校では、授業にダンスなる科目があるらしい。が、意味が分からないと思うのは僕だけだろうか。そんなモノはやりたいやつが嬉々としてやればいいだけであって、授業という名の強制にして学ばせる代物ではないだろう。そもそもダンスとはどんなダンスなのか。クラシックバレエ、モダンバレエ、ヒップホップ、レゲエ等々、両手に余るほどその種類は多く、たかがダンスといえども世界は広いのである。そういった種種雑多なダンスの中から、一体なにを基礎として学ばせるのだろうか。そもそもダンスの基礎とはなんなのか。一般的にはバレエだといわれているが、あんな固っくるしいダンスを、低学年か高学年か、何年生から学ばせるのか定かではないが、気が多く散漫になりがちなfucking kidどもに教え学ばせることなど出来るわけがないじゃないか。第一、誰が教えるというんだ? 体育大出の体育教師にダンス教育などとうてい無理、じゃあ専門の講師を雇いましょうねって、おい文部省! 血税をそんなくだらないぃ、云々。これはサンデーモーニングのご意見番こと大親分の故・大沢啓二ならずとも、「喝っ!」と言わざるをえない案件である。

さて、突然ですが盆踊りの思い出について語ってくださいと、この何とも言えない読感を変えるため、僕の中のリトルマーメイドが囁くものですから、突拍子もなくあいむそーりーなわけですけれども、思い出について、語ってゆきたいと思います。

海馬から盆踊りという語を抽出し、それからくる、最古の記憶を手繰り寄せてみたところ、思い浮かぶのは、なにやら賑々しいお祭りの情景と、私の手を握っているおばあちゃんの、枯れ木を思わせるしわっしわな手でした。私はたぶん、六歳か七歳。おばあちゃんが、賀寿でいう古希にさしかかった年齢で、「あんたの歳で割ればおばあちゃんは十歳ぐらいだよ」などと呆けたことを言っていましたので、まず間違いないと思われます。
そんなおばあちゃんが、私は好きではありませんでした。勝気で気難しく、事ある毎に小言を言わねば気がすまない、世間一般の嫌な姑像を丸写しにしたような荒い気性が、どちらかといえば繊細な私の気性に合わず、おばあちゃんを思い出すたび、季節毎の長期休暇に祖父母の家へ行くのが嫌で嫌で堪らなかった苦い記憶を想い起こします。
子は親に似ると言いますが、私の母も荒い気性で、姉も近いモノがあり、その子である姪も、どうやら根は荒いようで、ここまでは格言然もあらんといった感じですが、翻って私を含む男系を見てみると、尻に敷かれる気弱な男ども、といった按配で、どうも我が家系に限り、上記の格言は女系にしか通用しない話ではないかと、私は思います。

話を戻しましょう。記憶の中の賑々しいお祭りとはまさに盆踊りの最中で、私はおばあちゃんに手を引かれ、輪になって踊るあの奇妙な集団の中にいました。奇妙な音楽と集団の動きにつられ、おばあちゃんは陽気にはしゃぎ、どことなくぎこちない私を半ば引きずるようにして踊り歩きながら、盆踊り特有の民謡をうたう。
そんな極々普通の盆踊りの情景が、なぜ記憶に残っていたかというと、私の町の盆踊りは幾分変わっていたからだと思います。通常、盆踊りは中央に櫓を置き、その周りを輪になって踊るモノです。その点は変わりないのですが、規模、というか範囲が広大でした。というのも、盆踊りなどの行事がおこなわれる私の町の公園は、大きな池、というより小さな湖を囲んだモノで、学校の校庭の二倍はありそうな、広大な公園でして、湖の中央には、コンクリで拵えた人工島があり、湖のほとりの公園からは四方にアーチ状の橋が架かっている、そんな公園で盆踊りともなれば、奇異に映るのも無理はないというモノです。
さらにおかしなことには、余りにも長大で間延びしているからか、盆踊りのときには、四方に架かる橋の入り口に櫓を立てて、その一段高くなった舞台で、老若男女が創作舞踊を踊っていたこと、でしょうか。
創作舞踊とはいっても、凝ったモノではなく、単に様々な曲に合わせて思い思いに踊るだけなのですが、私がこのときの盆踊りを覚えている大もととなった踊りだけは、ある種芸術的だったのではないかなと思います。

思い返せば軍歌と分かる、しかしはっきりとは思い出せない、節ばった曲調にあわせて、しなびた柿を思わせるおじいさん達が、波打ち際に漂う海藻のようにウニョウニョと動いたかと思えば、錐形に並び、勇ましく行進する。今想えば艦船を想起させるその踊りは、なんというか奇妙な動きでありながら、なんとなく目を奪われる、そんな踊りで……。もっと記憶が鮮明なら詳細に書けるのですが、なにぶん昔のこととて、断片的にしか思い出せず、あの、子供心にも琴線に触れるような不思議な踊りを文章化できないことに苛立たしさを感じながら、私はそっと筆を置き、綴る手を止めてしまったのであった。
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空と匂いとそしてマフィン

先週の大寒波を乗り切り、暖冬といわれた今冬も残りわずかとなった月末、絶えて久しかったブログに手を付けたはいいものの、さてはて何を書こうかと、冷える足をすりすり、悩む頭に血が昇る。
久々に感じる脳裏の火照りは、微妙な疼痛のようで気色が悪く……。このままではまずい。いや、もうすでに綴る手を止めたくなってきている。早急に、激烈な気分の変化を生じさせねばならない。

その為には何をすべきか……? 一寸の黙考によって、僕の目はある一点に止まった。光という光を、これでもかと遮る遮光カーテン。まるでその先に開かずの間でもあるかのように、年中閉じたままの我が家のカーテンには、青黒い地の先に、微かに光の光点が差し込んでいた。(僕はいつもカーテンを開けない。何故か? 陽射しによって大気中の埃がクローズアップされるのを見ることが嫌だからだ。ちなみに窓も開けない。洗濯等の煩わしいモノはコインランドリーで済ませるべき代物だ)
やはり、というべきだろうか。激烈な変化を求めるには、嫌なモノへ目を向けなければはじまらないのだ。僕はそう結論付けると、重い腰をあげ、恐る恐る窓に近づき。やにわに手を引いた。
シャッと音を立てて開いたカーテンの先から、朝の爽やかな陽射しが眼球を突き、思わず目を細める。徐々に開いていく目に映じたのはやはり、空中を舞う、一体全体なんの成分によるモノなのか想像もしたくない微物だった。汚らわしいという思いが、咄嗟に窓を開け放つ。思いのほか強い風が寒気とともに身体の脇をすり抜け、一瞬にして体表という体表に鳥肌が立ち、マイサンが縮み上がった。横っ面を叩かれるような強烈な気温の変化が、渾然とした脳内を撹拌し、澱んだ気を一掃させる。ハッとするほどの気分の変化。求めていたモノを手に入れた喜びもつかの間、何やら辺りを漂っている異臭が鼻をつき、余計にすぎる関心が、すっきりした脳内に蔓延り始めた。

先ほどとは毛色の違う気色の悪さ。たちまち気分を害した僕は、この原因を作った妙に甘ったるいその匂いの元凶に向けて、想いよ届けとばかりに盛大に、苛立たしげに舌を鳴らしながら、一体、こんな日曜の朝っぱらから、胸がむかつくような匂いを辺り一帯に出してるのはどこのどいつで、何を作っていやがるんだとベランダから目の届く場所という場所を睥睨しつつ、どことなく以前、嗅いだことがあるような匂いについて記憶を漁っていた。
似たような匂いを嗅いだことが確かにあると、記憶を司る海馬から信号が送られてくる。幾万ものファイルに綴じられた記憶をパラパラと捲っていくと、あるひとつの情景が脳裏に浮かび上がった。
都心の繁華街等に通じる駅のホーム。立ち食い蕎麦屋や売店、喫煙所などの中の、パン屋の姿。そこから漂ってくるあの何ともいえない匂い。これだ。パン屋だ。またはそれに近いモノに違いない。

そう確信した途端、本当にそうなのか確かめたくて仕方がなくなってきた。取るものもとりあえず、部屋を出、通りへとくりだした僕の目に、新規開店セールのノボリをかけた、こじんまりとしたスイーツショップらしき姿が飛び込んできた。近くに寄れば寄るほど、匂いは強くなってくる。ここに間違いない。どうやらまだ開店前のようだ。ウインドウ越しに、なにやら立ち働いている人の姿が見える。店の前に出された立て看板には、可愛らしいカップケーキの絵と、当店一押しチョコチップマフィンの添え書き。

なるほどマフィンが原因かと妙に納得し。何故か気落ちし。とぼとぼと部屋に戻り。窓とカーテンを閉め。黙々と起きた出来事を打鍵し。文章として組みあがっていく様をみるにつけ。テキストのネタが出来たと喜ぶべきかどうなのか、なにやら釈然としないシコリのようなモノを抱え、僕は今日を生きていく。
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病院に行く。の巻

休日等で街に出るとき、僕は、つばの深い帽子や、色眼鏡などで顔、というより、目を隠さないと、外を歩けない人間です。他人の目が気になる。それは多分に、容姿に対してコンプレックスを持っているがゆえの所作、なのでしょうが、あまり深く考えたことはありません。できればマスクも併用して、完全防備、とイきたいところですが、それではもう変質者にしか見えない、という自覚がございますので、使ってはいなかった。のですが、先日、ひどい風邪をひき、市販の薬ではどうにも治らないような気がいたしましたので、注射を打ってもらおうと、病院への道中、マスクを付けざるをえない状況に陥りました。咳が止まらないのだから仕方ありません。マスクに色眼鏡をかけた僕の顔は、三流コメディドラマに出てくるような、怪しさ満点のコソ泥のようで、そのあからさまな怪しさが、何故かツボにハマり、ひとしきり、笑いと咳の発作で喉を痛めました。

病院の選択肢は二つありました。近所の、こじんまりとした内科専門の町医者か、最寄の電車で五つほど駅を通過したところにある、大学病院です。近所の町医者は、子供の頃からのかかりつけといっていいぐらい、何度もお世話になったところなのですが、なにせ子供の頃からことあるごとに通っておりますので、院長先生とは顔見知りもいいとこでして、会えばしたり顔で小言を言う、そんな小うるさい爺のもとへは、とてもじゃありませんが、足が向きません。ですので、多少遠かろうが、大学病院へと向かいました。

出来ればタクシーを使いたかったのですが、そんな余裕はありません。熱と咳でフラフラとする身体にムチを打ち、何かいやな汗が上半身を伝う気色悪い感触、まさに我慢汁を流しながら、電車に乗り込みました。

電車の中は割と空いていて、座席は選び放題です。ですが、座るかどうか悩みました。何故かというと、以前、座席に座ったとき、後から乗り込み、隣に座ったおじさんの、すんだ体臭がきつくて、吐き気をずっと堪えていたことがあったからです。それからというもの、僕は電車では、どんなに空いていようと、必ず立ったままでいたのですが、このときは気だるさに耐え切れず、座ってしまいました。これで外れクジでも引こうものならしょうがない、その時は毅然と俯けになり、原因となった人物に向かってオロロロロとゲロを撒き散らそうと思っていましたが、幸い、そんなことには至らず、無事、電車を降りることができました。

駅から病院へはバスを使います。歩いていけない距離ではありませんが、ダルいのでバスで。ここでもすんだ体臭の持ち主に出会うのではないかと危惧しましたが、あいにくそんな人はいませんでした。実は、密かに期待していたのです。なぜか自虐的な気分になっていて、果たして今の僕は耐えられるのかどうか、試してみたい気持ちに、心が傾いていて、何事もなくバスを降りた際、思わず舌打ちをしたほどです。病気のときは身体はもちろんですが、心もおかしくなるのだと、振り返ってみて思います。

大学病院は休日ということもあってか、かなり混雑していました。それでもなんとか座席を確保し、長い診察までの時間、ぼんやりとしていると。ふと、前の座席にいる、綺麗な白髯のお爺さんと、四十ぐらいの男性の会話に、耳を奪われました。というのも、週刊誌のグラビアアイドルに対して、何やら話あっているようだったからです。


「うちの教室に来てた、ほら、○○さんに似とらんか」
「そう言われれば、確かに、似ているような気もしますが。娘さんでしょうか?」
「ん、歳も四十そこそこだったはずだから、娘かも知れんな」
「離婚して今は独身だという話ですから、娘さんがいたとしても、おかしくはありませんね」
「ほう、離婚を。ならお前にはちょうどいいんじゃないか」
「え? なぜですか」
「なぜということはなかろう。その歳で未だに独身というのはかっこがつかんだろう。美人だし、考えてもいいんじゃないか」
「いえ、先生、そう言われましても。僕なんか、とても相手にされませんよ」
「そんなことはやってみなくちゃ分からんもんだろう。大体、お前は意気地がない。だから未だに独身なんだ」
「まあ、そうなんですが。しかし、生徒さんに手をつけるなんて、とても」
「そう固く考えんでもいいじゃないか。これも何かの縁、ってやつかもしれんだろ」
「縁、と言われましても」
「おまえが妻帯してくれれば、安心して譲れるというもんだ。そろそろ隠居して気侭に生きたい、そんな老人の願いを、お前は無下にするのか?」
「いえ、はぁ、僕は――」

こんな会話だったと記憶しています。二人の関係はどうやら師弟のようでしたが、なぜ、こんな会話が記憶に残っているかというと、中年のおじさんが、お爺さんに対して、「僕」と言っていたからです。なぜ、「僕」なのでしょうか。「私」ではないのか?
いい歳をしたおっさんが、師であり年輩者に対して、「僕」と言う。そこに僕は微かな違和感を感じました。

「僕」という人称は、謙称である。へりくだり語である。弟子が師に対して用いるのは別段、おかしくはない。しかし、それは弟子が若い場合に限るのではないだろうか。爺まで秒読み態勢に入っているおっさんが、爺に対して「僕」とへりくだる。これはおかしい。なにかがおかしい。目上を敬うのは礼儀として当然である。んがしかし、必要以上におもねってはいないか。逆に、慇懃無礼、とまではいかないが、無礼ではないのか。会話を反芻するに、このおっさんは、爺に教室とやらを譲るとまで言われているのだ。とすると、おっさんの腕は師である爺に限りなく近いといえる。師に追いつくほどの腕なら、誇っていて当然である。誇りがあるなら、たとい師であったとしても、師に対して「僕」とは言わない。いや、言えない。師に対する侮辱であるといえる。なぜなら、そこには甘えが垣間見えるからだ。つまり、まだまだ及ばない、この先もご教授くださいと暗に言っている。断罪すべき軟弱さである。惰弱さである。僕はこのおっさんに対して、軽蔑という語以外に表現するすべを知らない。


とまぁ、今思うと不思議でしょうがないのですが、なぜかおじさんに対して、覚える筋のない怒りを覚え、色眼鏡の奥から睨みに睨み付けていました。不思議です。
そんなことを思いながら、診察を待ち、診察を受け、注射点滴を打たれ、薬を貰い、家に帰ってばたんきゅー。
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『自殺スレ大量発生』のあらまし

2chに入り浸っていると、よく「趣味がない」という人の話を目にするが、これは間違いであると僕は思う。趣味といえば、スポーツや教養、創作といった物事を挙げるけれど、別にそれじゃなくても良いと思うのだ。一日のうちの何刻かを好きな行為に費やせば、それは立派な趣味だと言えまいか。
そう、好きな行為。よくやる事と言い換えてもいい。
例えば生活習慣にしても、食事や風呂が嫌いという人はそうはいないでしょう。美味しいと評判のお店で食事をしたり、健康ランドなどのリラクゼーションルームで身体を癒したり、そういう特別な事をしなくても、日々の些細な習慣が、当たり前の事ですが「好きな・よくやる行為=趣味」であると言えなくもないですよね。言えるはずです。少なくとも僕はそう考えます。

故に、私は声を大にして云う。趣味はつーちゃんねるであると。
匿名性が保たれた便所の落書きという気楽なぬるま湯にどっぷり浸かる。煽って卑屈な喜びに浸り、煽られて顔を真っ赤にし、そして時には、恥も外聞もなく自分語りに精を出す。そう、自分語り。政治に関する私見も、他人に対する意見も、言ってしまえば自分を語っているのです。意思の交換。それが気楽に出来ることがツーチャンネルの良さであり、入り浸る原因だと、愚考する次第です。

ですから、2chで「死にたい」と嘆く憐れな自分語りの叫びが、自殺スレ大量発生という珍事に繋がったとしても、別段、驚くような事ではありません。年間の自殺者三万人という数字が、潜在的な自殺者予備軍を物語っていますし、ほぼ毎日のように誰かが「死にたい」とスレを立てている現状をみると、不思議ではない、と言いたくはなるのですが、これが、とある一日のうちにおこった出来事であるという現実からは逃れられない。であるならば、何やらきな臭いモノを感じずにはいられませんよね。

仮にその日をスーサイド・デイと名づけましょう。現場は雑談系2カテゴリーの中では狼と双璧をなすVIP板です。スレッド保持数が六百前後の板で、ゴールデンタイムには十分ほどで、レスが無ければdat落ちしてしまうほど、人の多い板です。

事件の始まりは午後八時ぐらいでした。偶然、「死」を意味する文言がスレタイに入っているスレが、十数個ほど乱立しました。死にたいと嘆くだけあって、各スレの>>1は、レスが付く度にグチグチネチネチとレスを返していきます。誰かに聞いてもらいたくて仕方が無い、そんな悲鳴にも似た自分語りの熱は、そうそう冷めやしません。自然、各スレは勢いを上げていき、目に付きやすい位置に固まっていました。スレ番一から百の間に、十数個の「死」スレ。それだけのスレが立っていれば、確実に目に付き、そして異変に気づきます。あれ、なんかおかしいぞ、と。
そう思ったある一人が、悪戯心からでしょう、「自殺スレ多くね?」といった旨のスレを乱立したことが、このスーサイド・デイをスーサイド・デイたらしめた行いだったと言えるでしょう。

季節は夏、夏休み真っ盛りの時期です。「夏厨」という言葉が至る所で散見されるサマーデイズに、マナーなどどこ吹く風、便乗しない手はなかったのでしょう。あっという間に自殺スレが大量発生し、鎮火までに小一時間を要した、というのがスーサイド・デイの大まかなあらましです。

祭りとも言えない小さな小火騒ぎは、線香花火のような刹那の薄命に終わり、この事件も、ネット百科事典などでまとめられることなくその存在を抹消されるのでしょう。ですが、それで良いのです。ネットの大海、その場末の便所の落書き板など、その程度の存在が、丁度良い。それで、丁度良いのです。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
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ここがどこなのか分からない。なぜ走っているのか分からない。前方の暗闇を侵食するように、背後から暗赤色が迫り来る。炎にも似た揺らめきは、踊っているかのようだ。

悲鳴と怒号が飛び交い、それに折り重なるようにして耳を聾する衝撃が、只事ではないことを認識させる。混乱に陥ったのであろう人々が、視界をうるさく遮っていった。

腰を抜かし立ち上がれない者。やみくもに逃げ惑う者。呆然と立ち尽くす者。それぞれの混乱ぶりが、異常事態だと告げている。なにが起こっているのか分からない。そのことが恐怖を生み、混乱に拍車をかけた。

ただただ前を向いて走った。足元を揺らめく暗赤色は、変わらずぴったりと後を付けてくる。走ってさえいれば振り切れる。頭はそのことで一杯だった。鼓動が脈打つたび、発汗の雫が五体を滑っていく。

赤い恐怖から逃れるために暗闇へとひた走る。そのことにどこか不安を覚えたとき、ふっと頭上に何かが翳った気がした。目を上げると、とてつもなく巨大な何かが迫ってくることに気づき、次の瞬間、


はっと目が覚めた訳なんだな。びっしょりと汗をかいた体が、血塗れではないと気づくまでにしばらくかかった。それほど夢に囚われていたんだろう。普段、夢はみても内容まで覚えてないことが多いのに、こういう嫌な夢に限ってよく覚えているのは何故なんだろう。記憶のメカニズムがどうなってるのかなんて知らないけど、嫌な出来事ってのは好い出来事より記憶に残りやすい気がするんだよね。その事と関係があるのかどうなのか、ちょいとググってはみたものの、学術的な記述ばかりで目が滑る。まったく頭に入ってこない。こういうなに、あかでみっくな文を読むたび思うんだけど、まず結論を馬鹿でも分かるように平たく書いてくれないかな。そのあとで存分に専門用語を駆使してつらつらと書き連ねればいいとぼかぁ思うんです。その方が馬鹿に優しい。馬鹿に優しく。馬鹿に優しいなお前。

作戦名:馬鹿に優しく
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共通テーマ『ワイルド』

今回、ワイルドというワードが共通テーマに選ばれたとき、はて、ワイルドとはなんぞや、と思い巡らしてみましたところ、なんといいましょうか、肯定的な意味での、ある種のカッコよさとしてのワイルドなイメージが思い浮かびました。
ワイルドを日本語に訳すと、野蛮だとか、野生的であるとか、そういった日本語を想起させますけれど、そういった日本語には、私の感覚では、たぶんに否定的なニュアンスを含んでいる気がしてならないのです。しかし一転、ワイルドと言葉を言い換えると、どこかカッコいいと思えてならないのです。

何故、そう感じてしまうのか。色々と考えてみたところ、どうやら異文化への無知や憧れが原因のような気がします。例えば、日本語に無理解な外人が、ファッションとして、日本人が見ると変な漢字のタトゥーを彫り込んでいたり、変な漢字入りのTシャツを着ていたときに、日本人はそこに可笑しみを覚えるモノですが、それと同じように、私のような英語に無理解な人間からすると、ワイルドというイメージは、日本語に無理解な外人が持つ日本語のイメージ、ニュアンスと一緒だと思うのです。
野蛮や野生、というと、動的なイメージがありますが、ワイルドには、どこか静的な、知的な野蛮さとでもいったような、対極にありそうな要素が内在している感じをもってしまう。
そう、知的というイメージ。何故か、ワイルドには知的なイメージを持ってしまうのです。そう感じてしまうのが、無知から来る異文化への憧れなのではないかと、愚考する次第ではあるのですが。

もう少し、具体的なイメージで考えてみましょう。例えば、ランボーシリーズで有名なランボーは、フィクションの世界の人物ですが、彼は正に野蛮だとか、野生的なイメージを体現していると言えます。ですが、ワイルドではない。私の感覚でいう、『知的』な野蛮さを感じない。
ドラゴンボールのベジータは、知的でありながら野蛮といったイメージにビッタリなのですが、ワイルドかと言われると、そうは感じない。何故なら低身長だから。体格が醸し出す風格、豪快さが彼にはない。
豪快であること。もう一つ、私の中のワイルドというイメージに必要な要素が出てきました。知的で、野蛮で、豪快。それはどんな人でしょうか。どうも当て嵌まりそうな人物が思い浮かばない。

ここまでつらつらと考えているうちに、知的でなくても良くはないかと思えてきました。要は、カッコよせさえすれば、私の感覚でいうワイルドという言葉のニュアンスに符号するような気が。しかし、ランボーがカッコいいかと聞かれると、うーん? となりますし、ベジータは? となると、うむむ? と唸っちゃいます。具体的なイメージを、どうも持てない。

とすると、やはり私は、ワイルドという言葉を、きちんと理解していないのでしょう。漠然としたカッコよさ。それが私のワイルド。ということでさようなら、また(書けるか分かりませんが)来週。

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